June 5, 2009

村人たちはまず、負傷者を背負い、嵐の中60mの断崖絶壁を登り、暴風雨で火も起こせないため人肌でトルコ人を温めて蘇生させ、浴衣などの衣類を提供した。当然、電気、水道、ガス、電話など未だ村にはない。約50戸400人程しかいない村で、69人の食料を提供することは大変な事だった。井戸も掘れず、雨水を利用し、米も獲れない貧しい村だった。村では漁をしてとれた魚を隣の町で米に換える貧しい生活で、台風で漁ができないため、食料の蓄えもわずかだった。住民は、卵やサツマイモを食べさせ介護した。食料はすぐに底をついた。食べさせたくとも自分たちの食料すらない。非常時のために飼っていたニワトリまでも食べさせた。また、遭難者の遺体は、引き上げ、丁重に葬った。村人が外国人を見るのは生まれて初めてだった。

 この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられ、その後遭難者たちは治療のために神戸へ移送された。明治天皇は侍医を、皇后は看護婦13名を神戸に派遣した。天皇はトルコ人保護の費用の負担を村に申し出たが、「当り前のことをしたまでです」と村人たちは丁重に断った。

その後、遭難者たちは天皇の命により海軍の軍艦「金剛」と「比叡」の2隻で無事トルコに送り届けられた。2隻は同年(1890年)10月に日本をたち、翌明治24(1891)年1月2日にイスタンブールに到着した。その功績をたたえ、当時のオスマントルコ皇帝から帝国海軍士官らに勲章が贈られた。 同年2月、日本側により、串本に「土国軍艦遭難之碑」が建立された。

 この話に同情した山田寅次郎という人が、新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。明治25(1892)年4月4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。義捐金は遺族に届けられた。山田はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、士官学校で日本語を教え、日本とトルコの友好親善に尽くした。この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となるムスタファケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。